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2024年2月リサーチ

2月1日(木)

10時~16時:「平リサーチ」

参加者:5名(陸奥・寺澤・井上・北林・渡邊)

 

春に開催予定の『いわき時空散走フェスティバル』に向け、新しいエリアのリサーチが始まりました!2月1日(木)は、新エリアの平へ初リサーチに行ってきました。今回のリサーチでは、平七軒町出身の渡邉瞳子さんと、平三町目FAROオーナーの北林由布子さんと一緒に平を歩いて巡りました。

FAROからスタートし、いわき駅のエスパル内にある『 いわき平時空MAP 』を見てから、城山の方へ向かいました。渡邉さん、北林さんは桜ヶ丘高校(旧磐城高等女学校)出身で、2人の通学路を歩きながら、「帰り道ここの商店よく寄ったな〜」などと思い出話もお聞きしました。

桜ヶ丘高校にある『桜丘会館』は、有形文化財に登録されており、お二人が通われていた時は文化祭の準備の時などに、ここに泊まっていたそうです。

 

その後、渡邉さんがずっと気になっていたという六人町へ。県営・市営の長屋住宅が並び、不思議な雰囲気。古地図によると、ちょうど飯野八幡宮の裏にあたるこの辺りに避病院があったとか…!

 

次に磐城高校へ向かっていると、少し手前で気になる看板を発見。「下宿栄山荘 さわの湯鉱泉 この坂の下約50米」本当にこの下にあるのか…?と疑いながらも進んでいくと、本当にあり一同驚き。携帯で調べてみると、今は閉業中となっていましたが、磐城高校出身の方の中には、さわの湯鉱泉に入ったことある人もいるのでは…?

 

その後、菩提院まで行き、まちの方へ降りて行きます。お昼は、北林さんに教えてもらい田町にある『みふみ屋』でとんかつをいただきました。衣さくさく、お肉ふわふわでとても美味しかったです。

そして、100年以上続く琴三味線屋の『山形屋』にいき、店主の方からお話を伺いました。現在は三味線の先生が減っているとのことでしたが、以前は山形屋の近くを通ると、三味線の練習している音が聞こえたそうです。

 

田町から平一町目の方へ向かうと、平一町目公園(通称くま公園)の近くに、静かに佇む銅像が…!『鷹崎千代女史像』と書いてあり、産婆(助産師)の学校をいわきに設立し広めた女性の方だそうです。

その後、アリオス、平競輪場、廿三夜尊を回りコースを確かめました。このあたりで風が強く寒さが限界になってきたため、FAROに戻りこの日のリサーチは終了。FAROを超えて平四町目より向こう側はまた今度リサーチする予定です!

 

そして19時からはFAROにて渡邉瞳子さん主催で『古地図BAR』が開催されました。平の古地図が集まり、参加者たちが思い思いに話し、新たな情報もたくさん入手できたようです。リサーチの深掘りにもなり、貴重な話をお聞きすることができた会でした。

 

2月2日(金)

10時~18時:「赤井リサーチ」

参加者:6名(陸奥・寺澤・井上・松本・大森・藤城)

 

まず初めに前回の赤井リサーチの時、公民館で勿来関の本が置いてあり、そこには「著者の橋本吉治さんが赤井出身」と書いてあり、今回やっとお会いすることができました。

『勿来の関研究会』へ訪問し、橋本さんと菅波さんにお話を伺いました。赤井岳の龍燈伝説についてや昔話など、興味深い話も沢山あり、また赤井の話だけでなく、勿来の関の真実について詳しく教えていただきました。

 

勿来の関の所在地について、宮城県の説もあるようですが、やはりいわきなのではないかと数々の貴重な資料から証拠を集め、研究されていました。決定的な証拠の豊富さから、とても納得しましたし、勿来の関への熱い思いが強く伝わってきました。

次に、常福寺に行き、住職の上野さんから、赤い猪の伝説をはじめとして、赤井の様々なお話をお聞きすることができました。またこの時期の龍灯杉は、葉っぱが落ち、頭の方までよく見えました。自然のパワーを感じるスポットでした。

 

最後に、勿来の関研究会の橋本さんに繋いでいただいた、赤井出身の岡田さんと吉田さんにお話を伺いました。赤井にある北諏訪神社の山外舞(やまとまい)について教えていただき、北諏訪神社の鍵を管理している方に繋いでもらい後日伺えることに…!

 

このようにリサーチではいつも、人から人へと繋いでいただき、知りたかった情報に辿り着けたり、次々に新たな発見があったりと、本当に地域の人達のご協力のおかげで成り立っています。これからも地域の皆さんと一緒にマップを作っていけたら嬉しいです。

 

2月3日(土)

13時~16時:「湯本リサーチ」

参加者:8名(陸奥・寺澤・井上・松本・小松・小松(母)・根本・熊谷)

 

2月3日(土)は、湯本エリアにリサーチへ。今回のリサーチでは、湯本エリアサポーター候補の根本さんとマッキーに加え、ヘキレキ舎の小松理虔さんと、浅貝で生まれ育った理虔さんのお母さんと一緒に湯本の「八仙・浅貝エリア」を歩きました。

 

最初に湯本駅の歩道橋に登り、八仙・浅貝の街並みを上から眺めながら、当時のお話をお聞きし、そのあと実際に町を案内していただきました。湯本駅の裏側にある市営八仙団地は、十軒長屋が立ち並ぶ炭鉱住宅だったそうです。

「ここに公衆浴場があって、こっちには商店があって、ここは〇〇さん家で・・・」と、位置関係や番地まで鮮明に覚えている理虔さんのお母さんの話は、当時の光景の想像が膨らみとても面白かったです!また、理虔さんは子供の頃夏休みの時などに、小名浜から浅貝の祖父母の家まで遊びに来ていたそうで、歩きながら当時を思い出して懐かしむ様子も。

 

八仙団地のすぐ近くには『子種山祇神社』があり、飲料水が湧き出る場所だったそうです。湯本では家のお風呂も温泉だったほどどこでも温泉が使えたそうですが、逆に飲料水はとても貴重だったとのこと。また、この神社のふもとには理虔さんの祖父母の畑があったそうですよ。

 

次に八仙から浅貝へ、トンネルを通り抜けると町の雰囲気がまたガラッと変わります。車通りも少なく、静かな住宅街。歩いていると、商店や鮮魚店、現在は閉業していますがお肉屋さんがあったりと暮らしも見えてきます。

 

さらに進むと県営団地がありここも炭鉱住宅だったそう。そしてその先には広い更地。ここには野球場があったようで、さっき通ってきた鮮魚店をやっている方のお姉さんが女子野球チームに所属していたという話が!

 

それは気になるなあ〜と思い、帰りに鮮魚店に寄ってみたところ、最近たまたま遺品整理をしていたそうで出てきた写真を見せてくださいました。「捨てようと思って」と渡された写真の中に、なんと『八仙女子野球チーム』の写真を発見!!見つけた瞬間、「あった!!!」と一同大歓喜でした。

他にも、仮装をした盆踊りの写真や、炭鉱住宅の写真など、この辺りの地域の歴史が詰まった貴重な写真がたくさん残されていました。八仙女子野球について調べても、残されている資料は見つけられず、ギリギリ掘り起こせてよかった…!と思いました。実は、家に眠っている写真などが、その地域の歴史を残すとても貴重な資料になったりするかもしれません。

 

2月4日(日)

10時~15時:「赤井・平窪リサーチ」

参加者:5名(陸奥・寺澤・井上・藤城・熊谷)

 

今回のリサーチ最終日。2月4日(日)には、赤井・平窪をリサーチしました。リサーチ初日にお世話になった岡田さんに繋いでいただき、北諏訪神社を管理している方にお話を伺うことができました。

 

北諏訪神社で行われている山外舞(やまとまい)について、資料や写真まで用意してくださり、詳しく教えていただきました。毎年8月第4土日に例大祭が開催され、山外舞だけでなく三匹獅子舞も奉納されるようです。稲荷、おかめ、ひょっとこなど、それぞれのお面。が印象的で、写真からも山外舞の盛り上がりが伝わってきました。今年の夏にはぜひ見に行きたいです。

その後、北諏訪神社の近くにある『大山祇神社』まで歩いて行ってみることに。磐越東線沿いに歩いて行き、最後には急な山を登り、何とかたどり着けました!情報はあまり無かったのですが、綺麗にちゃんと管理されている様子でした。

 

お昼は平窪の人気レストラン『木木』に行き、午後からは平窪の方をリサーチしました。最初に向かったのは、利安寺大日堂。ここには、小川郷エリアでも登場した、小川江筋を作った澤村勘兵衛のお墓がありました。そして気になるのが、『平窪郷土誌』に書かれていた『からし坊主伝説』や『鬼馬塚伝説』などの様々な伝説話。それらを確かめに回りました。

 

2月10日(土)

9時~12時:「平リサーチ」

参加者:3名(寺澤・井上・渡邊)

 

2月10日(土)午前中は、この間の平リサーチで行けなかった『山田屋醸造』の青木貴司さんにお話を伺いに行ってきました。好間と平の境にある”久保町”に『山田屋醸造』があるのですが、城山や駅前の町側ともまた違う雰囲気のエリアでした。

 

山田屋醸造は明治時代から続く老舗味噌屋さんですが、実は味噌屋を始める前は饅頭屋だったそうです。目の前の道は、城へのメインストリートだったのでここを通る武士たちが饅頭を食べてお腹を満たしていたとのこと。そして、青木さんに案内していただき、古地図と照らし合わせながら久保町周辺を歩きました。

1番驚いたのが、山田屋醸造のすぐ横に好間江筋と言われている用水路があり、そこを古地図で見てみると城のお堀と同じ位置でした!堀がそのまま江筋として利用されているのかもしれないとのこと。

 

また、元文一揆の時には総勢2万人の義民のうち3千人がこの江筋入り口辺りに集合して向かったそうです。ここにその人数が集まった光景が膨らみ、元文一揆の規模の大きさを実感しました。

そして、青木さんのお父さんからもお話を伺うことができ、戦時中の話が印象的でした。当時は、学校のグランドは食料自給するための畑になり、生徒たちは田んぼで匍匐前進や木の鉄砲の練習など軍事訓練をさせられていたとのこと。

 

戦時中は米も食べれなかったですが、味噌作りに必要な米は支給されていたそうで、どんな状況であっても味噌は必要とされ続け、作り続けてきたんだなと思いました。最後に、蔵の中も見学させていただき、この味噌の匂いにどこか安心してしまう…やっぱり日本人だなあとしみじみ思いました。

 

他にも新たな発見がたくさんあり、とても濃いリサーチでした。『山田屋醸造』の青木さんご協力いただきありがとうございました!

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