
『いわき時空散走フェスティバル24秋』末続・久之浜ツアー
▶ 末続・久之浜ツアー『いわき時空散走フェスティバル2024秋』
【日時】2024年10月13日(月)13時~16時
【集合・解散】末続駅・久之浜駅
【サポーター】高木史織(たかぎ・しおり)、井上栞里(いのうえ・しおり)

いわき時空散走サポーターの高木史織さん

いわき時空散走アシスタント・サポーターの井上栞里
▶ツアーコース
(スタート)末続駅→ 縣令島田君碑→ 根渡山末績寺→ すえつぎCAFE→ 塩民・大山神社→ 金ヶ沢・見渡神社→ 久之浜港防災高台→ 故殿上館ノ城主外一同之碑(津守神社)→ 星廻宮神社→ 久ノ浜駅(ゴール)
新エリアの末続・久之浜ツアーでは、いわき時空散走初めての海沿いを走ります。田んぼ道や川沿いも良いですが、海風が気持ちよく、またいつもと雰囲気の違うコースとなりました。
また、末続駅からスタートし、久之浜駅にゴールするという二駅を繋ぐマップも今回初の試みとなりました。そしてサポーターを務めるのは、久之浜にある『SLOW DAYS Cafe』の店主・高木史織さんと、いわき時空散走アシスタントの井上栞里です。末続は主に井上が案内し、久之浜はここで生まれ育った高木さんが、地元民ならではのお話と共に巡ってくれました。
参加者は、リピーターの方もいましたが、初参加の人が多く、隣の広野町からも来てくれました!地元の方の参加はもちろんですが、市外、県外からの参加も大歓迎!大変嬉しいです!誰が参加しても、自然と会話が生まれてみんなで楽しめる、今回もそんな大盛り上がりなツアーでした。
ー 住民たちで作り、守り続けてきた末続駅
早速、末続駅からスタート!参加者の皆さんの自己紹介を終え、まずは末続駅について。「末続駅に来たことがある人!」と聞くと、初めての人も何人かおられました。末続駅のすごいところは、住民たち自らが作った木造駅舎であるということ。
明治31年(1898)に常磐線が開通しましたが、広野駅と久ノ浜駅間は8.4㎞と長く戦時中の昭和19年(1944)に緊急時用の信号所が末続に開設されました。
しかし、やはり広野駅から久ノ浜駅間が長いということで、地元住民は駅を作るために、松茸や干し柿を手土産に関係者に何度もお願いし、結果、「地元側が駅舎を建設すること」を条件に許可されました。そこで、地元住民らは末続の共有林を伐採し資材にし、延べ3000人の労力で昭和22年(1947)に駅が開設されました。
また、今でも住民らで維持管理を行い、大切に守り続けられている駅舎です。駅舎の中に入ると、『末続駅ノート』と書かれたノートが置いてあります。中を見てみると、末続駅に訪れた人達のメッセージや日記、イラストなどがびっしり書かれていました。
中には、末続出身の学生の、地元に対する熱い思いが書かれたページも。このノートを読むと、ここに訪れた人も地元の人もまた戻って来たくなるような温かさを感じます。
また、末続区主催で、駅舎を開放し様々な出店や、歌やダンスなどの催し物も満載の『末続駅マルシェ』が時々開催されており、住民たちの集いの場にもなっています。
そんな話をしていると、用事で到着が置くれていたサポーターの高木さんが遅れて登場!
末続駅は、『海の見える駅』としても有名で、みんなでホームの先まで行くと海が良く見えました!春には、つつじの花が辺り一面に咲き、とても綺麗だそうです。梅雨の時期のアジサイも綺麗なのでぜひ末続駅へ行ってみてくださいね。
ー 飢饉を救った小名浜代官・島田帯刀
やっと自転車に乗り駅を出発し、まず向かったのが『縣令島田君碑』です。当時小名浜代官の島田帯刀が、天保7年(1836)に起きた飢饉の際に、米不足で悩む農民のために、無断で幕府の備蓄米を配給し農民たちを救済したという話があります。
幕府からは、職権乱用で咎められ、閑職に追いやられますが、住民の嘆願により、再度小名浜大官に復職しました。この碑は、島田帯刀の偉業を顕彰した者であり、他の場所にも多く建てられています。
また、末続は、『フラフラダンス』や『釣りバカ日誌』のロケ地にもなっているのですが、地元の人からすると位置関係がちょっとおかしいとか、あのシーンが良いなど、話が盛り上がりました。聖地巡礼をしてみても面白いかもしれませんね。
ー 海から発見された聖徳太子像
次に到着した場所は、『末續寺』。『まっつぐじ』と読むそうです。ここでは、かつて『太子講』という、大工、左官、瓦屋などの職人たちが聖徳太子を工匠の祖として年に1回祭りを行っていたそうです。
ある朝、浜に丸木舟があがってきて、浜の人が泳いで見に行くと、聖徳太子の木像が乗っていたそうで、それを拾い上げて浜にお堂を建て祭りが行われたのがきっかけと言われています。海にあったお堂が崩れてしまい、お寺に上げられたそうで、実際にお堂中をそっと覗いてみると、聖徳太子らしき像が見えました!
また、ここには長州・広島藩の武士、農民、商人らで結成された神機隊の『林熊太郎』という方のお墓があります。林熊太郎は、戊辰戦争・末続の戦いで負傷し、当時の戸長・鈴木常右衛門の屋敷で亡くなったといいます。当時、神機隊326名は、自費で新政府軍に参加し、死者・重傷者は、3分の2にも及んだそうです。
「そこまでする動機は何だったんだろうか」「当時の政府がそれほど良くなかったのかな…」などの声もありました。
自分の命を捧げて国と戦う、抗議するということが、現代を生きている私たちには想像しにくい世の中ですが、一方で、政治や国策に対してSNSでしか意見を言えない人が溢れる現代社会もどうなのかと考えさせられます。
ー すえつぎCAFEでひと休み
「全然走ってないじゃん!」とツッコまれそうですが、すえつぎCAFEで休憩を挟みます~
すえつぎCAFEは、夫婦で経営しており、オーナーの岡森さんの地元である大阪の出汁文化と福島の食材を融合させたスパイスカレーが名物です。また、自家焙煎珈琲も大変人気で、新鮮な豆の香りが店内にも漂います。他にも、キッチンカーでの出店や、珈琲豆の焙煎教室、奥さんの綾子さんは、CAFEをやりながら娘さんとの歌手活動や、ボイストレーニングの講師としても活動されています。
まだ少ししか走っていませんが、たくさん喋って喉がカラカラな我々は、リンゴジュース、オレンジジュース、パインジュース、コーヒーなどそれぞれドリンクを注文。喉を潤しながら、ここでもまだみなさんの話は止まりません(笑)
皆さんは、幻の『いわき満洲黒豚』をご存じですか?
満州豚は、多産で1960年には26頭の世界最高を記録したことがあり、肉質は脂肪が薄く、肉は赤くとても旨味が濃く良質だったそうです。その豚が、一時期、末続で飼育されていたのです!
末続にある老人ホーム『翠松園』創設者の新妻尚二郎氏は、「いわき満州黒豚」を飼育されていました。
太平洋戦争中、東条英機首相は、食糧難を想定して雑草やイモヅルなどで飼育できる満州黒豚を密輸し、輸送の途中で2隻は撃沈しましたが、本土に辿り着いた1隻分の豚が各地に配布され、その一部が茨城県古河市の陸軍駐屯所に送られました。同地の養豚場経営者・近江弘氏が豚を引き継ぎますが病に倒れてしまい長い療養生活を送ります。
昭和47年(1972)に、満州黒豚を提供していた焼き肉店で近江氏と新妻氏が偶然出会い、意気投合し、近江氏から満州豚の原種を分けてもらい、趣味で育て始めたのがきっかけだそう。
近江氏が病に倒れてからは、新妻氏が想いを引き継ぎ飼育していましたが、東日本大震災の影響などで飼育が難しくなり、静岡・富士農場の獣医で豚の人工授精の権威である桑原康氏に豚は託され、同牧場で飼育されています。
今回ツアーにも参加してくれた、いわき駅前のイタリアン『La Stanza』のシェフ・北林さんによると、『La Stanza』でも新妻さんが飼育したいわき満州黒豚を使っていたそうです!特に、生ハムが絶品だったとのこと。
いわきで食べれなくなってしまって残念ですが、静岡で『セレ豚(セレブー)』という名で食べることができるそうなので、静岡に行った時にはぜひ食べてみたいですね。
そんな話もしながら、すえつぎCAFEで休憩できたところで、出発!
再び駅の方まで戻り、国道の下を通って山を越えていきますよ!線路の下、国道の下を通るのはなんだか新鮮。車だといつも国道を使ってしまうのでこんな道があったとは!車の交通量が少なく、自転車でのんびり走ることができました。
そんな道の脇に突如現れたのが、小さな鳥居。塩民という地域にある『大山神社』です。鳥居があるだけで、その先は草が生い茂っていけなくなっており、「奥に何かあるのか気になるな~」と冒険心がくすぐられている人も。
塩民という字名は、末続では昔、塩作りが行われており、その名残だといいます。『郷土誌久之浜』によると、かつては塩民鉱泉が湧き出ていたそうで、また塩民の旧道の竹藪脇には坑口があり、炭鉱が採掘された時期もあったという話もあるそうです。
高木さんのおばあちゃんからも、昔炭鉱の話を聞いたことがあったそうです。いわきは、意外といろんな場所で炭鉱があったんですね。
ー 金ヶ沢の勘太郎
そして、山を下ってさらに走っていくと、常磐線の下を通るレンガ造りのトンネルが出てきました。そのトンネルの先が、『金ヶ沢』という地域です。この辺りは東日本大震災で、津波の被害にあい現在は集会所と見渡神社のみ残っています。
ここには『金ヶ沢の勘太郎』伝説があります。『西郊民俗』によると昔、人を殺めた鍛冶職人が金ヶ沢まで逃げ、そこで潜りの名人・遠藤勘太郎が世話をし、山に住まわせてあげました。しかし、職人は贋金を作り始め、それがバレてまた奥州の方へ逃亡します。
数年後、偶然、勘太郎と鍛冶職人は再会し、職人は、世話になったお礼に出羽三山・月山に奉納の名刀を打ち直してナサシ(魚刺し)を作りました。そのナサシは、『月山丸』と言い、多くの獲物が取れ、海水も三尺ばかり割けて海中を自由に往来できたそうです。
また、平・絹谷の青滝の堤に大蛇が住み着き用水を堰き止めていた時には、勘太郎は月山丸を持って「池が青いままなら蛇に食われて失敗。(血で)赤くなれば成功だ。」と言って池へ潜りました。やがて池は真っ赤に染まり、見事大蛇を討ちました。勘太郎の死後、子孫たちが月山丸を分けて打ち直しそれぞれ作ったが、残念ながら効果はなく、普通のナサシになってしまったという話があります。
現在も、絹谷ではこの話が伝わっており、当時、絹谷の村人たちが勘太郎が討った大蛇の死骸を堤防に埋めて弔い、墓しるしとして植えた桜の木が『青滝の血桜』と言われているそうです。この血桜は、枝や幹を切ると血のようなものが吹き出るなどの伝説もあります。
こんな面白い伝説があったとは・・・参加者の皆さんも驚いている様子でした!
そしてここから坂を越えていきます!少しアップダウンのあるコースとなっており、普段から自転車に乗る人たちにとっても走っていて気持ちいいコースではないかと思います。
ー ドンタリを眺めながら柏餅をぱくり。
坂を越えて到着したのが、久之浜港を一望できるスポット!ここでひとまず休憩を挟みます。
高木さん「津波や台風が来たら、漁船は沖の方へ逃がさないといけないので、漁師さんたちは地震の後すぐ港に来て漁船を動かして逃げるけど、逃げ切れなくて、電信柱に上って収まるのを待ってたそうです。今はこの避難経路ができました。(港から今いる高台まで階段が続いている)この港は、港祭りや花火大会の会場としても使っているので、ここから見る花火は綺麗なんですよ。」
地元の人ぞ知るスポット。地域のイベントなどで日頃から地域の人たちが避難経路を確認、活用できていることはとても大切だなと思いました。
そして「じゃじゃーん!!」と陸奥さん、寺澤さんが手に持つのは、『菓匠 梅月』の柏餅!
いわきの人なら一度は食べたことがあるのではないでしょうか?(まだの方はぜひ!)地元の人たちの定番手土産になっている、老舗和菓子屋さんです。
東日本大震災で津波に遭い、その後の火災で全焼しましたが、「もう一度、梅月の柏餅が食べたい!」という地元住民の声に奮起し、震災から1年後に国道6号沿いに移転して再開しました。
海を眺めながら、柏餅をいただきます。疲れている時の甘いもの最高!あんこが甘すぎない優しい味でした。
「夕方とかに食べると葉っぱがねっぱるんだよね~!」と何度も食べたことある方もいて、「やっぱり美味しい!」と笑顔に。
久之浜港は、眺めていると、奥の方に崖が見えます。その崖は地元の人たちから『ドンタリ』と呼ばれているそうで、かつては洞窟が多くあり、中には『博打穴』があったとか!
漁師たちは、伝馬船に乗ってこっそりと博打穴で遊んでいたという話もあるそうです。久之浜港はの殿上崎の陰にあるため『陰磯』とも呼ばれており、久之浜駅前や町の方と比べるとひっそりとした港です。人目を避けれるこの場所で博打や密貿易などが行われていたのかもしれませんね。
また、この近くには、かつては『遠藤造船所』があり、久之浜最後の木造船の船大工であった故・遠藤行道さんは2008年発足の「よみがえれ伝馬船・プロジェクト伝」に参加し、海竜丸を造りました。昔は、末続・久之浜で数多くの伝馬船が使用され、行き来していたそうです。
高木さん「今は入れなくなっちゃったけど、子供のころ防波堤のところで、タコ糸にスルメイカつけてよく蟹とってました(笑)」
地元民のこういう話がいいんですよね。「私もそのやり方でザリガニつって遊んだな~」「今だったら伊勢海老釣れるんじゃないか!?」などと話が盛り上がり、海の穏やかさにつられていつまでもここに居れてしまいそうだったので、さあ出発!ゴールまであと少しです。
ー 政五郎因縁野狐・・・?
次に、津守神社に到着です。津守神社境内には、『故殿上館ノ城主外一同之碑』という、よく見ると少し不思議な石碑があります。かつて当地に殿上館があり、遠藤氏の居城でしたが、岩城氏に攻められて落城したといいます。
昭和8年(1933)に遠藤氏の子孫の方々が建てた石碑『故殿上館ノ城主外一同之碑』には城主、奥方、姫、家臣のほか、81名の名前が記載されているのですが、その中には「谷泉力士」「風呂番幸吉」「洗濯婆トメ」「八歳ノ赤馬」「政五郎因縁野狐」など面白い名前も!ぜひ探してみてくださいね。
そして、津守神社からは青くキラキラした海が見え、夕日の光が差し込みます。神社までの坂は少し大変ですが、頂上からの景色は最高です!
次に星廼宮(ほしのみや)神社へ。ここの社殿は、東日本大震災の時に津波で流されてしまったのですが、現在の社殿は兵庫県神道青年会がアサヒビールから旧西宮工場にあった旭神社の社殿を譲り受け、星廼宮神社に贈られました。昭和3年に企業内神社として建立され、西宮空襲や阪神淡路大震災も乗り越えてきた社殿です。
高木さんによると、かつては境内に遊具もあり、駄菓子屋さんも近くにあるので子供のころよく遊んでいたそう。また、ここでは約100年の歴史があると言われている『だるま市』が毎年1月に開催されています。もう久之浜の職人は誰もいなくなってしまい、双葉郡の方から売りに来ているそうです。
そしてついに久ノ浜駅にゴール!!電車の時間までに無事到着できました!
最後、参加者の皆さんからの今日の感想では、「普段通り過ぎてしまっていたところを自転車でゆっくり走りながら、まちのことを知ることができた。」など、嬉しい言葉がたくさんありました。参加していただきありがとうございました!
初めてのスタートとゴールが違うツアーでしたが、この機会に電車で来て下さった方も多く、いわきに住んでいると車での移動あ当たり前になりがちですが、健康のためにもたまには電車や自転車で移動してみるのもいいかもしれません。移動手段を変えるだけで、まちの見え方も変わるかも。
文章:井上栞里(NORERU?広報)
写真:鈴木穣蔵