
『いわき時空散走フェスティバル24秋』平ツアー 田部君子フィーチャーver.
▶ 平ツアー『いわき時空散走フェスティバル2024秋』
【日時】2024年11月10日(日)13時~16時
【集合・解散】いわき駅
【サポーター】北林由布子(きたばやし・ゆうこ)
▶ツアーコース
(スタート)いわき駅→ いわき平時空MAP→ 田部君子生家跡付近→ 磐城平城本丸跡地→ 桜ヶ丘高校→ さわの湯→ 磐城高校→ ときわ亭→ 藤田女学校跡→ 平二町目付近→ FARO(ゴール)
今回の平ツアーでは、同時期に開催された「田部君子フェスティバル」とコラボで、田部君子にフィーチャーしたツアーを実施しました!
いわき時空散走で平エリアをリサーチした際に出会った、いわき出身の女流歌人『田部君子』。彼女の人生や、短歌に衝撃を受けたいわきの女性たちが「もっと多くの人に田部君子を知ってほしい」という思いが形となり、『田部君子フェスティバル』が開催されました。
いわき時空散走は、マップに載せることで皆さんに知ってもらうきっかけ作りに過ぎないですが、知ってくれたまちの人たちが自ら新しい動きを生み出してくれたり、好きなように楽しんでもらうことが、私たちの目指している部分でありとても嬉しいです。
ツアーには、田部君子を知っている人も、初めて知る人も参加してくれました!サポーターの北林由布子さんとともに、田部君子のゆかりの地を巡り、『田部君子』の人生ももちろんですが、彼女の歌う言葉一つ一つを丁寧に紐解き想像する、豊かな時間が流れるツアーとなりました。
▶ツアーハイライト
― 田部君子ゆかりの地を巡る
いわき駅に集合し、S-PALいわき内にある『いわき平時空MAP』を見学した後、まず最初に向かった先は、鷹匠町。田部君子が平で過ごしていた時期に住んでいたのがこのエリアだそうです。現在は違う方の家になっているので、おそらくこの辺りだろうという場所を巡り、城山へ向かいました!
桜ヶ丘高校、磐城高校などを巡り、青春話に花を咲かせたあと、町へ降りていきます。そして着いた場所は、松ヶ岡公園にある『旅館ときわ亭』。
『田部君子歌集』に、ときわ亭で歌会が開催されたことが書かれており、この辺りで詠んだであろう歌もいくつか見受けられました。そのため、私たちが勝手に田部君子ゆかりの地としてここを選んでいます。田部君子については、前回のツアーレポートで詳しくまとめているのでそちらも合わせてご覧ください。
さて、今回は田部君子の人生だけでなく、彼女の短歌も皆さんに知ってほしいのです。
北林さん「ここでやっと短歌を紹介したいと思います。ときわ亭の歌会で詠まれた短歌を一つ選んでみました。」
” 一途さの盲となりし朝顔にゆづらぬ戀のありとこそ知れ ”
1935年、19歳の時に詠んだ歌です。「恋をしていた時期なのかな」、「恋心を朝顔で表現しているところが素敵だな」などと、色々と想像が膨らみます。
北林さん「そして!直感読み短歌あそびをしていきたいと思います~今日8人参加者がいるので、これから巡る3か所で2,3人ずつ、直感で開いたページの最初に目に留まった歌を読んでいただいて、それをみんなで味わいましょう。」
事務局の寺澤がルーレットとなり、指を差された人が読むことに。参加者の方がそれぞれ選んだのはこの三つでした。
”あをあをと草にあげくる六月の月水晶の冷えを匂はす”
”桐の花の尻をつまみて吹き破るありしをさなき音をききゐる”
”不忍の池のみぎはに春草のうら若髪をおきておもへる”
皆さんは、それぞれの短歌からどんな描写を想像しましたか?
まずは用意していた年表と照らし合わせて、その歌が何歳の時に歌われたものなのか、どういう状況に置かれていた時期なのかを調べてみます。私たちも短歌については詳しくないので、一度読んでみて、言葉ひとつずつをみんなの知識や視点を寄せ集めて私たちなりに紐解いていきます。
例えば3つ目の歌は、君子が東京へ出ていった頃の歌で、「春草のうら若髪をおきておもへる」については、「若髪は子供の頭かな?」、「春草は春の柔らかい緑の草かな」、「つまりは、柔らかい春草を手で撫でた時に、子供の頭の感触に似ていて、子供を思い出しているのかも!」というふうに、君子がどこで何を思って詠んだのか私たちなりに想像してみました。
短歌一つでも、読み手によってどう受け取るかは違ってくると思います。でもそれが短歌の良いところで、みんなで読むことの面白さだと感じました。自分一人で読んだ時の解釈と、他の人の視点が加わった時の歌はまた違う印象になります。言葉一つで色んな表現や解釈ができる日本語の魅力を改めて実感しました。
― 君子が通った藤田女学校跡
次に向かったのは、レンガ通り沿いにある第2藤田ビル。ここは、藤田女学校跡で田部君子の母校です。当時君子が通っていた頃の古地図と照らし合わせると、ちょうどこの辺りに藤田女学校があることが分かりました。在学中から君子の短歌は高く評価されており、学生時代に詠んだ歌はどれも初々しく華やかな印象を受けます。
そして、北林さんが図書館のデータベースで見つけた、君子の短歌が掲載された磐城新聞の一面を見せてくれました。君子は当時16歳でおそらく藤田女学校に通っていた時期に詠んだもの。これは、『田部君子歌集』にも載っていません。
”顔洗ふ肌やや寒し目に見えて小さくなりぬ朝顔の花”
朝起きて顔を洗った時の、冷たってなるあの光景が私は浮かびました。そしてまたしても朝顔が!お花がたびたび出てくる君子の短歌は、どこか可愛らしい、あどけないイメージが膨らみます。
次に、参加者の方々の直感読みはこちら。
”手洗の水の底ひに星一つ突きささりゐて寒に入る空”
”蟷螂の鎌を立てゐる朝顔の玉蟲色の秋をめでをり”
二つ目の歌を最初読んだ時、参加者全員が少し考えこみました。「朝顔って秋かな?」、「カマキリと朝顔…?」、「玉虫色ってことはカラフル?」そんな意見が出ていると、参加者の方が調べてくれて、カマキリも朝顔も秋の季語ということが判明!そうなると、カマキリの緑色と、朝顔の青や紫色が合わさると、確かに玉虫のあの色になりますよね。きっと君子の目には、秋が色鮮やかに映っていたんだなあと、私たちは考えたのでした。
― 君子とおじいちゃんが出会っていたかも!?
次に止まった場所は、平二町目にある、ひまわり信用金庫の前。実は、北林さんのルーツを辿ると、ちょうど君子が平で過ごしていた時代に、おじいちゃんは平二町目の一角で筆屋をやっていたそうです。藤田女学校からも近いですし、君子が北林さんのおじいちゃんから筆を買っていたかもしれませんね。おじいちゃんと君子は歳も近いし、友達だったかも!などと妄想を膨らませながら盛り上がりました。
また、昭和9年には、この辺りの道のアスファルト舗装が行われたそうです。その結果、江戸時代から続く盆の伝統行事だった『盆の迎え火』ができなくなったのですが、商店街の集客のためにも何かせねばということで、その年から七夕祭りが始まったそうです。現在も続く、七夕祭りの始まりはここからだったのですね。
そして、同じく昭和9年に、きっとそのアスファルト舗装されたばかりの道を歩いたであろう君子が詠んだ歌がこちら。
”往く人らみな晴々しいわがはけるフェルト草履のはずむ舗装路”
道が土からアスファルトに変わり、土ぼこりが出ないとか、草履で歩いた時の音が違ったり、まち往く人々がみんな嬉しそうな、わくわくした表情をしていたのでしょうか。北林さんのおじいちゃんも、その一人だったかもしれませんね。逆に、迎え火ができなくなって、七夕祭りの準備など大変な思いをした側かもしれませんが…。
そして、最後の直感読み!
”ぬるむ陽に浮く氷片の薄さともたとへんまして妻といふもの”
温かい陽ざしで溶けて薄くなっていく氷片のようだ、妻というものは。今にも消え入りそうな存在であるという、妻として生きる辛さが感じられます。この歌を詠んだのが22歳なのですが、君子は22歳の時に家を出ていくので、出ていく直前の一番辛かった時の歌かもしれません。
”われのみが知るかなしみはいはでこそ静坐して今日も千字文書く”
最初は、家を出て一人になっても短歌を書くんだという決意表明のような歌なのかなとみんなで解釈していましたが、ある参加者の方が、「千字文って、子供に教える漢字練習帳のようなものだから、この後離れ離れになる子供のために書いたんじゃないか。」という意見があり、「なるほど!」となりました。会えなくなる悲しみは自分だけが知っていて、置いていく愛する我が子のために、千字文を書いているという状況なのでしょう。またしても、つらい歌でした。
最後は君子の辛い時期の歌でしたが、ここに共感する人もいますよね。君子の短歌の創作は、16歳~22歳のわずか7年間でしたが、君子が生きた時代背景や、君子の人生、楽しい時もつらい時も、歌から伝わってきます。そしてそれが、今を生きる私たちに重なったり、共感する部分もあったりするのが面白い。
今回のツアーで紹介した君子の短歌は、ほんの一部ですが、皆さんに田部君子や短歌の魅力が少しでも伝わっていたら嬉しいです。
文章:井上栞里(NORERU?広報)