
『いわき時空散走フェスティバル24秋』草野・神谷ツアー
▶ 草野・神谷ツアー『いわき時空散走フェスティバル2024秋』
【日時】2024年11月16日(土)13時~16時
【集合・解散】草野駅
【サポーター】藤城光(ふじしろ・ひかり)、松本恵美子(まつもと・えみこ)

いわき時空散走サポーターの藤城光さん

いわき時空散走サポーターの松本恵美子さん
▶ツアーコース
(スタート)草野駅→ 一鍬塚→ 愛宕花園神社→ 来迎寺→ わたなべの飴本舗→ GAMP HOUSE→ 旧・片寄平蔵宅乳房門→ 死人田跡→ 光明寺→ 草野駅(ゴール)
新エリアの草野・神谷ツアー!サポーターは、いわき時空散走ではおなじみの二人。いわき時空散走のデザインを担当する藤城光さんと、大野・玉山エリアのサポーターも務める松本恵美子さんです。実はお二人とも旦那さんの実家が草野にあり、草野エリア在住なのです!
草野・神谷エリアも盛りだくさんなマップでして、今回はコースの半分ほどしか回れませんでしたが、それでも時間が足りないほど、面白い伝説話やスポット、偉人たちもたくさん出てきました。
また、草野出身の参加者が多かったので、各スポットで色んな地元話で盛り上がり、新たな発見もあり、終始楽しいツアーでした。アップダウンの少ない草野・神谷エリアのコースは、自転車初心者でも安心してのんびり走れましたよ!
― 美空ひばりが来た皮膚科?!
草野駅に参加者の皆さんが集まりだし、マップを配ると、ツアー開始前から地元の方々の色んな話が飛び交っていました。自己紹介が終わり、早速ツアーがスタート。
今回は、地元民の参加者が多く、ツアー開始前に聞こえてきた話を喋ってもらうことに。いわき時空散走では、ツアーと言いながら参加者の皆さんが話していることが多いです。だからこそ、ツアーではマップに載っていない話や、その時限りの話がたくさん!今回のツアーでは、どんな話が聞けるのでしょうか・・・
地元参加者Aさん「私が小学生の頃。国鉄時代は、草野駅に3、4人駅員さんがいましたね。木造駅舎で、今の駅舎とトイレを合わせたくらいの大きさでした。気づいたらこうなってましたね(笑)」
なんと!今は無人駅ですが、元々は駅員さんも乗客もたくさんいたんですね。
他にも、「私も高校生の頃、ここから電車乗ってました!」、「学生の頃、遅刻しかけたらあの辺りのフェンスから潜り抜けて、電車に飛び乗ったなあ。改札通ってると間に合わなくて(笑)」などと、みんなの思い出話がどんどん出てきて、草野駅の話だけでスタートから大盛り上がり。
すると、ある参加者が、
「まだ木造駅舎だった頃、この先に、盲学校とかんかじ医院があったんですよ。かんかじっていうのは、いわきの方言で火傷って意味なんだけど。おおば皮膚科っていう医院があって、そこに、美空ひばりが硫酸か何かかけられて火傷した時に来たという噂話があるんですよ。」
「ええええ!!まじですか!?」と一同驚き。地元では、おおば皮膚科は評判が良く有名だったそうです。
「確かな情報ではないですけど、私が小学生だった時の技術の先生が、家庭訪問でおおば医院の裏庭を通ったら、おたまじゃくしがいっぱい干してあったって。それから20年後くらいに、アメリカの科学雑誌である種のおたまじゃくしが皮膚の再生に効果があるって書いてあったんです。だから、おおば皮膚科は先取りしてたのかもしれないなと思って。」
またまた、衝撃的な話が!おおば皮膚科、すごい。「そんな面白い話があったなんてマップに載せたかった!」と陸奥さんも言っていました。自転車に乗る前なのに、すでに面白すぎましたね。こういう風に、「知らんけど!」っていう真実は分からない話も、気軽にみんなで和気藹々と話したいのです。
さて、自転車に乗って走っていきますよ~!
― 一鍬塚と鮑絵馬
次に到着したのは、『愛宕花園神社』です。自転車から降りて、参拝していきます。
階段を上っていき、先に現れたのが、「名墳一鍬塚」と書かれた石碑。昔、薬王寺が雷で焼失した際に、僧の隆忠は薬王寺の再興を懇願し、手に”隆忠”と書いて、「私が生まれ変わって再建する」と誓い土中に入りました。往来の人々が、一鍬の土をかけていき隆忠の土中入定を見届けたそうです。その後、隆忠は岩城隆忠(いわきを統一した名君)に生まれ変わって、薬王寺を再建したといいます。昔は、ここに木が生えていて、それは隆忠の目から生えた木だと言われていた話もあるそうです。
さらに階段をのぼっていくと、舞台のようなものがあります。
藤城さん「ここで巫女舞が奉納されていたっていう話を聞いたんですが、見たことある人いますか?」
参加者「小学生の時、同級生が学校を休んで、巫女舞をしていました。」
参加者「去年見ましたよ!」
さすが地元民。今でも、巫女舞はやっているそうです!地域の伝統が続いていて素晴らしいですね、ぜひ見てみたい!
花園神社は、子育てのお宮さんとして信仰され、この辺りの地域では子供が生まれたらここへお宮参りに来るそうです。かつては、安産祈願や婦人病平癒のために『鮑絵馬』を奉納しました。
その鮑絵馬に書かれた絵の原画があり、福島ではオシンメイ様と呼ばれる、30㎝ほどのお人形のようなご神体が入れられていた木箱の蓋裏に鮑の絵が書かれており、その原画に基づいて絵馬に描いていたそうです。
他にも色々話が盛り上がり、その後、一旦みんなでお参りを。
すると、ここの狛犬が丸くて可愛い!と大人気でした。
みんなでお参りをした後、社務所へ行き、鮑絵馬の実物を特別に見させていただきました。鮑絵馬は、色鮮やかで、一つ一つ手書きなので、それぞれ味があって可愛い!
鮑は女性のシンボルで、昔は「愛宕花園神社の氏子は鮑を食べない」という風習などもあったといいます。
鮑絵馬は、地元の参加者の皆さんもはじめて見たようで驚いている様子でした。また、オシンメイ様と鮑絵馬の原画も見させていただきました。オシンメイ様は木箱に3体入っており、実際に見てみるとちょっと怖いような可愛いような。
本当に貴重な機会となりました!ありがとうございました。
再び自転車に乗って走り出します。次に向かうのは、『来迎寺』です。
― 「曽我の仇討」から雨乞い信仰へ
来迎寺の境内には、「曽我の仇討」で有名な曾我十郎祐成(兄)と曾我五郎時致(弟)の供養塔があります。領地争いで父・伊東祐泰が源頼朝の家来・工藤祐経に殺され、その仇討ちで曽我兄弟が工藤の屋敷に忍び込む際に雨が降り、その雨音に紛れて工藤を討つことができました。
雨のおかげで成功したという出来事から、雨乞いの信仰と結びつき、日本全国で曽我兄弟の供養塔が作られ、来迎寺の供養塔もその一つだと思われます。草野エリアは田畑も多いので、雨乞い信仰とは繋がりやすいですね。
参加者の中には、ここが通学路だったという方も!実は、来迎寺のすぐ裏には、草野小学校と草野中学校があり、来迎寺を通り抜けると近道だったそうです。
次に到着したのは、『わたなべの飴本舗』です。
浅草で修業をした初代が昭和7年(1932)に創業しました。当時、東京の方では、手土産に高級飴を贈る文化があったそうですが、いわきではあまりその文化は浸透しなかったとのこと。「いわき市石炭・化石館ほるる」の開館で「いわきらしい土産を作ろう」と考案されたのが名物・石炭飴です。真っ黒で石炭のような形をしているニッキ飴です。
石炭飴以外にも、茶玉やハッカ飴など、昔ながらの味が地元の方々から人気でしたが、製造を継続することが難しく、残念ながらお店は最近閉業してしまいました。
今回、藤城さんが石炭飴を買ってきてくれて、みんなで食べました!見た目は、本当に石炭にそっくりですが、食べると美味しいニッキ飴でした。
― 農家古民家ゲストハウスGAMP HOUSE
ここから、「赤沼」という地域を走っていきます。
赤沼の伝説話をかく?
田んぼ道を走っていると、立派な古民家が現れました!ここが、農家古民家ゲストハウスのGAMP HOUSEです。
享保年間(1716~1736)に建てられたという伝統的な古民家は、ゲストハウスオーナーたださんの実家であり、農家古民家ゲストハウスとして今も使われています。自然と共生していた昔の日本の生活が体験でき、海外のお客さんに大人気です。
ゲストハウス以外にも、農園、食事処、工務店、教育サポートなど、がんぷ村での活動は多岐に渡ります。今回、がんぷ農園で栽培・収穫された無農薬の米で作った一口サイズのおにぎりを差し入れてくださいました!
ふっくらもちっとしていて、美味しい!!元気になりました~
みんなで集合写真を撮影した後、たださんに見送られて出発!さらに走っていきますよ~!
― 旧・片寄平蔵宅の乳房門がここに!
片寄平蔵は江戸滞在中に黒船の動力源が石炭であると聞いて石炭探しを始め、安政2年(1855)、白水村弥勒沢で石炭を発見しました。横浜で石炭商を始めると幕府の御用商人になり、巨万の富を得ました。商談の接待で吸い物に小判を入れたり、遊郭の3階から小判をばらまいて『盛った盛った大森平蔵』と流行歌に謳われたといいます。
しかし、外国人との交流や派手な振る舞いが売国奴と見なされたのか、攘夷派の水戸天狗党に敵視されて暗殺されました(享保48年)。まだ、首が見つかっていないとか…。「まだ生きてるかも!?」、「もっと長く生きていたら、渋沢栄一くらい有名な人だったのでは」などと、話が盛り上がりました!
大森にあった平蔵の生家は戦後に解体されましたが平蔵門(乳房門)は細谷の芳賀家に現存しています。乳房門は、本来は武家の家しか作ることが許されていなかったそうですが、平蔵は石炭ビジネスで成功した後、大代官所に許可を取り、乳房門を建てたそうです。
― 高木誠一が書き残した『死人田跡』
続いては、百目木の田んぼを歩いた先。草で見えずらくなっていましたが、田んぼと線路の間に沼があり、そこが『死人田跡』だといいます。名前からゾッとしますが、その名の通り、かつてこの場所に「田を作ると必ず人が死ぬ」と言い伝えられた田があったそうです。
田を作ると、人が死ぬので誰も作らなくなり、光明寺に預けられましたが、明治半ばに常磐線の敷地となりました。線路を作るために田の土を堀ったので「汽車沼」ができ、そのあたりが死人田跡といいます。
すると参加者が、
「親と喧嘩して家出して来た場所がここの沼だった。ウシガエルがいたなあ。」
「ここにたしか魚釣りに来た。リアカーが通れる橋があった。」
まさかのここに来たことある人が何人か!(笑)死人田跡とは知らなかったとのことです。
この死人田の話は、郷土研究家の高木誠一さんの名著『磐城北神谷の話』に書いてありました。高木誠一は、北神谷村の農家に生まれ、熱心に農業について学び従事しながら、柳田国男との出会いにより民俗学にものめり込見み、いわき民俗を伝承しました。
藤城さんの旦那さんが高木誠一の親族であり、資料なども少し残っているとのことで、ご実家にお邪魔して見させていただきました。著書や写真など貴重な資料や、お話ありがとうございました!
― 光明寺で石炭飴をお供えする
最後に立ち寄ったのは、光明寺です!少し本堂の中も見学させていただきました。
光明寺には、慶安3年(1650年)に、磐城平藩の群奉行・澤村勘兵衛が、干ばつ被害の調査で寺に立ち寄ったといいます。その際に、勘兵衛が「名には似ぬ泉崎にて水に飢へ実ならぬ村の寺の淋しさ」と口吟すると、当時の住職・歓順上人は「稲の為江水引かれよ関場より用ゆる水は山の麓を」と返歌し、これをヒントに勘兵衛は小川江筋を開削したそうです。
本堂の中には、澤村勘兵衛と歓順上人が話している様子の絵が飾られていました。
また、石炭の父・片寄平蔵は大森村(現」・四倉町大森)生まれで、光明寺の檀家だったため、平蔵の墓もここにあります。藤城さんのアイデアで、わたなべ飴本舗の石炭飴をお供えし、平蔵の墓の前でみんなで手を合わせました!(お供えした石炭飴は回収して帰りました)
実は、いわきの偉人たちとゆかりある光明寺。地元の方々も意外と知らなかったようでした!
そして、草野駅まで戻ってゴール!盛り上がりすぎてしまい、駅に着いた頃には日が暮れてしまいました。それでも今回のツアーでは草野・神谷マップの半分しか巡れていないので、次回のツアーもてんこ盛りになりそうですね!
文章:井上栞里(NORERU?広報)
写真:鈴木譲蔵