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『いわき時空散走フェスティバル24秋』湯本・浅貝ツアー

▶ 湯本・浅貝ツアー『いわき時空散走フェスティバル2024秋』

【日時】2024年12月14日(土)13時~16時

【集合・解散】湯本駅

【サポーター】山田亜希子(やまだ・あきこ)

いわき時空散走サポーター 山田亜希子さん

▶ツアーコース

(スタート)湯本駅→ いわき湯本温泉源泉揚湯場→ 浅貝球場跡→ 橋本酒店→ 温泉神社→ 原子力災害考証館 furusato→ ミニシアター Kuramoto→ 湯本駅(ゴール)

 

最終日は、新エリアの湯本・浅貝ツアー!湯本エリアのマップの完成を心待ちにしていた方も多いのではないでしょうか!今回のツアーには、湯本出身の地元の方々や、大阪や茨城など県外からの参加者もいました。

 

中には、おしゃれなミニベロ(小径自転車)を持参された方も見られ、実は湯本などのまち乗りには最適で、時空散走のツアーは乗り降りもあるのでナイスチョイス!

 

今回の湯本・浅貝ツアーでは、炭鉱や温泉の歴史のほかにも、女子野球や鯨岡阿美子さんなど、これまであまり光が当てられてこなかった物語にも注目です。とてもディープなツアーになりましたよ~

― 温泉と炭鉱の複雑な関係

湯本駅から出発し、駅の反対側に向かって走っていきます。最初に到着したのは、『いわき湯本温泉 源泉揚湯場』です。

 

湯本温泉は、元々そこら中から湯が沸いている状態で湯壺がたくさんあったのですが、炭鉱が始まって石炭を掘るようになると、温泉がすべて枯れてしまったという歴史があったようです。

 

当時は、炭鉱と温泉を比べた時に、炭鉱の方が産業としてお金になったので、石炭を掘れば掘るほど出てくる温泉はすべて川に捨てられていました。その結果、温泉が枯れてしまい、困った温泉宿の方達は、湯が枯れた原因である憎き石炭で水を沸かし、お客さんに提供したといいます。湯本の温泉と炭鉱は、少し複雑な関係なのですね。

温泉を安定供給するために昭和51年(1976)、湯本財産区、常磐興産、いわき市が常磐湯本温泉株式会社を設立。現在、源泉揚湯場では、地下620mに10数本のボーリング杭を打ち込んで花こう岩内の温泉を湧出し、湯本の温泉旅館やホテル、スパリゾートハワイアンズなどに送っています。

 

そしてここで登場したのが、all about bakeryさんがこの源泉を使用して作った『温泉ジンジャーブレッド』!!ほんのり生姜が効いていて、ジンジャーと(温泉)神社がかけられているそうです。源泉揚湯場を眺めながら、みんなでパンをパクパク。もっちりしていて美味しかったです!

そして目の前にあるのが、『いわき湯本病院』です。実は、湯本病院は炭鉱と深い関わりがあることをみなさんご存じでしたか?

 

大正10年(1921)に大倉財閥系の入山採炭(1944年に国策で浅野総一郎の磐城炭鉱と合併して常磐炭鉱となる)の事業所病院として開設されました。落盤、ガス漏れ、出水といった緊急時の事故対応で数多くの労働者の命を救い、また東北大学と連携して鉱山医学研究室を設置し、熱中症「あかまり」の研究などを行いました。

 

そして、昭和38年(1963)に医療法人常磐会いわき湯本病院となり、現在も続いています。

― コールシスターズとフラガール

次は、浅貝の方へ向かって走っていきます。到着した場所は、資材置き場になっている空き地の前。実はここが、『浅貝球場』の跡地だそうです。

 

「少し前まで駐車場だった気がする」「昔この辺りにおじの野球を見に来た記憶が…」と地元の方々は、なんとなく記憶があるようでした。

昭和22年(1947)、戦後間もない頃に常磐炭鉱は、会社の宣伝と従業員の慰労のために、硬式野球チーム(のちの「オール常磐」)を結成し、昭和26年(1951)には、5000名収容できる『浅貝球場』をつくりました。

 

常磐炭鉱チームは都市対抗の東北大会は5回優勝しましたが、全国大会では7回出場中4回も日本石油(横浜市)に敗北し、これは「石炭対石油」の代理戦争で新旧エネルギー交代の暗示となりました。そして、昭和46年(1971)の常磐炭鉱磐城鉱業所の閉業と同時にチームも解散し、その歴史を閉じました。

 

参加者の方が持参してくれた家のアルバムを見せながら、「この頃(高校野球)の監督が常磐炭鉱から派遣されていた」といいます。実は、平ツアーの時も、参加者の方から「オール常磐から監督が来てから磐城高校は強くなった。」という話がでていました。

浅貝球場は、オール常磐だけでなく、色んなチームが試合や練習に来たり、お祭りなども開催されていたという話もありました。また、親善交流で当時巨人軍二軍投手のジャイアント馬場が登板したこともあるそうです。

 

オール常磐は知っている方も多いのですが、実は女子野球チームもあったんです。昭和31年(1956)に常磐炭鉱は女子野球チーム「コールシスターズ」を結成し、浅貝球場でも練習・試合を行っています。石炭衰退の影響で、昭和37年(1962)に開団しましたが、選手のほとんどが炭鉱関係者の娘たちでした。入団するための選手選抜試験もあったそうで、運動神経の良いメンバーが集められ、取引先企業の男子野球チームを相手に試合をしていたそうです。

また、東京・世田谷の女子寮で合宿生活をしながら、裁縫、書道、茶道などの講義も受けていたようで、この女子教育のノウハウがのちのフラガールの育成、成功に繋がったといいます。「フラガールの前に女子野球があったのか…!」と参加者の皆さんも驚いていました。

 

浅貝球場跡のすぐ近くには、常磐炭鉱浅貝保養所跡があり、当地で昭和40年(1951)に、日本初のフラダンス、ポリネシアン民族舞踊の学校として常磐音楽舞踊学院が設立されました。講師のカレイナニ早川の指導を受け、初代フラガールとなった第一期生18人の常磐ハワイアンセンターのデビューと活躍を描いたのが、映画『フラガール』です。

コールシスターズのOGの方によると、映画『フラガール』の監督が、第二弾でコールシスターズを題材に映画を作りたいと言って、リサーチしに来て写真などを持って行ったそうなのですが、結局映画化はされなかったそうです。

 

OGの方にお借りした『常磐炭鉱女子野球』の手ぬぐいが、デザインがレトロで可愛く、「これはほしい!」という方も。常磐炭鉱の女子野球の歴史、知らなかった方も多いのではないでしょうか。今までスポットライトが当てられてこなかった物語をいわき時空散走で掘り出せたことで、今皆さんに知ってもらえることが嬉しいです。

― 『橋本酒店』伝説の黒カレー

ここで『橋本酒店』にて、休憩タイム!ホットチャイなどを注文し、冷え切った身体が温まります。ここでも、参加者同士でお喋りが止まらず和気藹々としていました。

 

橋本酒店は、創業100年を超える老舗酒店ですが、タイで日本語教師として働いていた経験を持つオーナー夫妻が、美味しいタイ料理を楽しめるカフェ&バーを開設しました。

また、常磐ハワイアンセンターの初代料理長・石井保シェフが湯本駅前で経営していた「レストラン ヤスヒロ」の伝説の名物メニュー『黒カレー』の味を引き継いでいます。激辛カレーで有名で、辛いけどコクがあり、また食べたくなる人気メニューです。

 

参加者の中にも、黒カレーのファンが!みんながドリンクを頼んでいる中、黒カレーを平気な顔であっという間にたいらげていました。辛いのが得意な方は、ぜひチャレンジしてみてくださいね。

― 鯨岡阿美子ゆかりの地

次に到着したのは、温泉神社前。目の前にあるローソンいわき常磐湯本町店の場所には、かつて名旅館『新滝』がありました。そこで育ったのが鯨岡阿美子(1922~1988)です。

 

磐城高等女学校(現:磐城桜ヶ丘高校)卒業後、女性が政治を語ることがまだまだタブーだった時代に、毎日新聞政治部初の女性記者となり、市川房枝(婦人運動家・参議院議員)の知遇を得て弟子を自称しました。

昭和28年(1953)には日本テレビに入社し、初の女性ディレクターとなると菅原文太や岡田真澄をモデルにして日本初のファッション番組『僕と私のファッション』を制作しました。その番組をきっかけに、昭和39年(1964)に『アミコ・ファッションズ』を発足し、パタンナー、デザイナーの養成、全米18都市を巡る『ジャパン・ショウ』開催などで業界をリードし続けました。

 

ちなみに、夫の古波蔵保好(1910~2001)は毎日新聞時代の同僚であり、名エッセイストでしたが、沖縄料理店『美栄』のオーナーでもあり、その美栄で修業したのが、湯本駅前の沖縄すば料理『A家食堂』です。たまたまだったそうですが、すごい運命ですよね。

こんなにも世界にまで活躍した女性のゆかりの地が湯本にあったとは!地元の皆さんも驚いていました。

 

また、鯨岡阿美子の父が野球好きで、鯨岡家は土地持ちだったこともあり、自分で球場を作ったという話もあります。浅貝球場とは別に、鯨岡家がつくった球場が湯本にあったそうです。

 

― 祖父と温泉神社

そして、温泉神社へお参りしていきます。温泉神社は、延喜式内磐城七社の一つでもあり1300年の歴史がある神社です。社伝によると上古は湯ノ岳山頂に鎮座し、中世には観音山、江戸時代の明和5年(1768)に現在地へ遷宮しました。本殿は現在、市の有形文化財にも指定されています。

サポーターの山田さんは、湯本出身なのですが、山田さんの祖父が温泉神社と関わりがあるとのこと。

 

山田さん「実は私の祖父は、山形県の天童市出身で指物師なりたかったけどなれなくて、家出をして音信不通になったそうです。しばらくして、”息子(山田さん祖父)が常磐炭鉱の落盤事故に巻き込まれた”という知らせが実家に来て、その頃から湯本に住み着いていたようなんです。祖父は、とても信心深くて、商売も上手で財を成した人だったうです。山形の湯殿山によくお参りにいって、多額の寄付をしていたそうで、その時に記念に建てたのがこれです。」

「湯殿山」と書かれた大きな石碑が温泉神社に建てられているのですが、その字は山形県にある羽黒神社の宮司さんが書いたものだそうです。また、とても立派な御神輿も温泉神社に奉納されているとのことでした。

 

羽黒神社にも狛犬を奉納したそうで、大きな狛犬で作るのが大がかりになるということで、泉(いわき)の大工さんを1か月ほど住まわせながら作ったという話もありました。写真を見せてもらいましたが、人の身長を優に超える大きさでした。山田さんのおじいさんすごい・・・

― 原子力災害について考える

次に向かったのは、創業300年以上の老舗温泉旅館『古滝屋』です。その9階には、『原子力災害考証館 furusato』があります。東日本大震災で発生した福島原発事故に関する資料や被災者の遺品などを展示しており、「賛成/反対」という立場を超えて学び、考え、話し合いをする場となっています。

 

東日本大震災が起きた時、古滝屋社長の里見喜生さんはボランティアに尽力し、外からきたボランティアの方が野宿しているのを見て、古滝屋をボランティアの方が寝泊りできる場として開放したり、今でも原発事故があった双相地区や福島原子力発電所をツアー案内したりなど、多岐にわたり活動されています。

初めて来た方も多く、参加者一人一人が展示を見学し、原子力災害についてじっくりと考える時間となりました。

 

原子力災害考証館の展示では、東日本大震災の原発事故のリアルがより感じられます。原子力災害は、自然災害ではなく人災であり、二度と繰り返さないために、今を生きる私たちが学び、未来を考えていく必要があると改めて実感しました。まだ行ったことがない方は、ぜひ足を運んでみてください。

― ミニシアター『kuramoto』でツアーを振り返る

最後に訪れたのは、ミニシアター『Kuramoto』です。2019年2月に湯本好き、映画好き、本好きのオーナー夫婦が始めたミニシアターで、2階がシアター、1階はカフェで書籍や雑貨なども販売しています。

 

今回のツアーでは、2階のシアタースペースをお借りして、参加者の皆さんと振り返り会を実施しました。

参加者「私が湯本に住み始めた頃は、鹿島抗入口っていう地域があって、その頃は温泉が捨てられて水温が温かくなって側溝にグッピー(熱帯魚)がたくさんいました。あと、昔、キンボチャンっていう仙台四郎的なおじさんが一人いまして、身柄が病院に預けられているとかの噂で。いつも警察官か何かの帽子をかぶっていたんですよ。時空散走に参加すると、なにげない日常の思い出が蘇ってきます。」

 

「キンボチャン懐かしい!よくフラフラ歩いてましたよね!」「思い出した!学生の頃ずっと謎だった」と、地元の参加者の皆さんが大盛り上がり!そんな名人物がいたとは・・・でも誰も何者なのかは分かっておらず、謎は深まるばかりでした。とても気になりますね。

参加者「サポーターさんやマップに書かれている話に、参加者の皆さんの話が加わってどんどん広がっていく感じが時空散走らしいなと思いました。この回に参加した人しか聞けなかった話もたくさんあるんじゃないかなと思って、皆さんと参加できてよかったです。」

 

参加者「湯本の炭鉱や温泉の話も知識としては知っていたけど、ツアーに参加して、地元の方々の思い出話として聞くとすごくリアルで面白くて、これがツアーの醍醐味だなと思いました。」

 

などなど、他にもたくさん素敵な感想が聞くことができました!

みんなで感想を言い合いながらのんびりしていたら日が暮れてきたので、慌てて湯本駅に戻ります。巡ったスポットの数はそれほど多くないのですが、一つ一つの内容が濃すぎて盛りだくさんなツアーになりました。

 

これでも、今回のツアーで巡れていないスポットや話がまだまだ沢山あります!湯本は深いですよ・・・これからのツアーで少しずつ湯本・浅貝マップを制覇していけたらと思っているので、今後も乞うご期待ください!!

 

 

文章:井上栞里(NORERU?広報)

写真:鈴木譲蔵

 

 

 

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